銀の弾などない- No Silver Bullet -

前回のブログ(コミュニケーションのコストについて考えてみよう)で、「実は、人員の増強はコミュニケーションコストを上げてしまう」と書きました。

今回は、その理由について書いてみます。

今回のちょっとカッコイイ表題は、『銀の弾などない-ソフトウェアエンジニアリングの本質と偶有的事項( No Silver Bullet - essence and accidents of software engineering))』(フレデリック・ブルックス/1986)から拝借しました。

ソフトウェアエンジニアには有名な古典的論文なのだそうです。

この論文と、同氏の著書『人月の神話-狼人間を撃つ銀の弾はない』には、「ブルックスの法則」と呼ばれる警句が記されています。

ブルックスの法則:遅れているソフトウェア・プロジェクトに人員を投入しても、そのプロジェクトをさらに遅らせるだけである。

そして、ブルックスはその法則が成り立つ理由を以下のように分析しています。

ソフトウェア・プロジェクトに人員を追加すると、全体として必要となる労力が、次の3つの点で増加する。すなわち、再配置そのものに費やされる労力とそれによる作業の中断、新しい人員の教育、追加の相互連絡である。

元々はソフトウェアの開発環境に関する論文・著作ですが、この法則と成立理由は、そのまま保育所や認定こども園などにも当てはまるのではないでしょうか。


保育実践の場で、ブルックスの法則を考えてみると

1.新規採用職員が、保育の質の向上に貢献するまでには、時間がかかる

保育は「誰にでもできる仕事」と謂れのない謗りを受けることもあります。

しかし、少なくとも「質の高い保育」は、高度の専門性を要求される複雑な作業の組み合わせです。

新たに採用された職員は、資格を所持することで基本的な資質を担保されていたとしても、施設ごとに異なる理念を学び、環境に合わせた具体的な手法の訓練を受ける必要があります。

つまり、新人を採用する際には、初任者教育のためにリソースを割かなければなりません。


2.タスクの分解可能性には限界がある

清掃・消毒などの分解可能性の高いタスクならば、人手を増やすことでタスク全体の所要時間を短縮できます。

保育分野の業務改善などの文脈で、保育者が周辺業務にリソースを割かなくても済むように保育補助者を活用しようと提言されることが多いのはこのためです。

しかし、保育の根幹であるところの子ども理解に基づくカリキュラム・マネジメントや、ラポール形成が前提の保護者支援は分解可能性が低く、人員増強が所要時間の短縮にはつながりません。


3.職員の増加は、組織内のコミュニケーションコストを増大させる

ここが今回お伝えしたいことの中心です。

保育の実践においては、職員全員が(クラスや学年の区分はあるにせよ)同僚性を発揮して協働する必要があります。

しかし、その実現には、会話・対話・議論などを積み重ねて、関係を構築し、相互理解を深め、合意形成する必要があり、そこではコミュニケーションコストを負担しなければなりません。

上の図を見ると判るように、n人が協調して仕事を進めるためには、n(n-1)のコミュニケーションチャンネルを調整する必要があります。

したがって、コミュニケーションコストは、nの2乗のオーダーで増加するとされています。

単純にいえば、人数を2倍に増やすと、コミュニケーションコストを4倍負担することになります。


元々コミュニケーションコストが高い組織が人員を増やすと…

各メンバーがコストを下げることに主体的だから全体のコストが下がる

左の図のように、全体にコミュニケーションコストが低い組織では、所属する全員(大多数)がコミュニケーションコストを下げる(低い状態を維持する)ことについて、自覚的かつ主体的であることが殆どです。

それが業務の質を向上し、自らを成長させるためにも有効だと気づいているからです。

それは研修・OJTなどの職員教育の中で明示される他、職場の文化・風土として根付いており、メンバーは日常の業務を通じてそのように涵養されます。

こうした組織は、そもそも離職率が低く、一度に多数の新人が採用されることは少ないのですが、もしそうなったとしても既存職員が積極的に働きかけるので、初任者教育のタスクは分解可能性の高いものとなり、短期的にリソースを割くことでアジャストできます。


メンバー間のコミュニケーションコストに偏りが生じる背景・原因

しかし、右の図のようにメンバー間のコミュニケーションコストに偏りがあり、かつそれが常態化している状態は、各々のメンバーが主体的にコストを平準化していく意欲を支えたり、その方法を学ぶ仕組みが整っていないことを示しています。


まず、丸で囲まれたメンバーに注目してください。

この人は、全てのメンバーに対して感じるコミュニケーションコストが低く、また殆どのメンバーから見たコミュニケーションコストも低い人です。

このメンバーが、この組織のM機能(Maintenance function:集団維持機能)を中心的に担っていることは間違いありません。


次に、五角形で囲まれてるメンバーに注目してください。

この人は、右隣以外のメンバーに対して感じるコミュニケーションコストが高く、また丸印の人以外のメンバーから見たコミュニケーションコストも高い人です。

新人や、転職してきたばかりの中途採用者は、大抵このような状態からスタートします。


初任者教育や、中途採用者向けの馴化プログラムが整っている組織ならば別ですが、そうではないので、メンバー間のコミュニケーションコストが平準化できていないわけです。

また、コミュニケーションコストが高いメンバーは、新人指導などのチューター役を積極的に担うこともないので、丸印のメンバーのようなM機能の高い人に、その役割が集中し、結果としてその経験知は組織の共有財産になりません。


コミュニケーションコストが偏ったり、全体に高い状態を放置すると…

既存メンバーに「主体的にコミュニケーションコストを下げる(低い状態を維持する)意識・意欲」が希薄な場合、新人や中途採用者は孤立したり、浮いた存在になりやすく、そこへの効果的な支援も期待できないので、当然、早期離職が頻発します。


また、丸で囲まれたメンバーは、全方位的にコミュニケーションコストが低い人なので、コミュニケーション自体に負担を感じていません。

だからこそ、高いM機能を発揮するのですし、周囲もそれに依存します。

しかし退職や異動で、そのメンバーが居なくなってしまうと、どうなるでしょうか。

前任者に比べてコミュニケーションコストが高いメンバーが役割を引き継ぐことになり、そこには重い負担がのしかかることになります。

それは、徒労感を強め、組織に対するエンゲージメントを下げるので、これを放置することも離職を誘発します。


人狼を撃ち殺す銀の弾丸は存在しない

そして、右図のような状態になってから、新規採用者を配属したとしても、さらにコミュニケーションコストが増大して、破綻に近づく一方なのは誰の目にも明らかですよね。

このように、元々コミュニケーションコストが高い組織が、それを改善しないまま人員を増やすと、逆効果になる可能性が高いのです。

現場から人員増強を要望されても、それを回避し続ける運営者は、経験的にそれを知っているか、本能的に察知している場合があります。


コミュニケーションコストを下げるためには、物理的にも時間的にも心理的にも余裕が必要で、そこには人員の増強は不可欠です。

でも、一時に大幅な増強を行っても無駄なばかりか、おそらくは状況を悪化させます。

一歩一歩、じわじわと改善していくしかないのです。


つまり、人狼を撃ち殺す銀の弾丸(魔法のように、すぐに役に立ち職場の人間関係を改善したり、保育の質を向上させるような特効薬)は存在しないのです。

前回のブログ(コミュニケーションのコストについて考えてみよう)で、組織・個人別の「コミュニケーションコストを上げる要素」についても解説すると書きましたが、長くなりすぎたので次回に見送ります。


参考及び引用した論文・文献

『銀の弾などない-ソフトウェアエンジニアリングの本質と偶有的事項( No Silver Bullet - essence and accidents of software engineering))』(フレデリック・ブルックス/1986)

『人月の神話-狼人間を撃つ銀の弾はない』(フレデリック・ブルックス/1975)


保育コンディショニングラボ

保育所・認定こども園で働く人たちのための、働きやすい職場作りをサポートする研究所です。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • 中村章啓

    2022.02.12 11:31

    はい。 コミュニケーションコストの低減は、特に心理的安全性や同僚性にも関連が強いので、じわじわと醸成・涵養していくしかないものだと捉えています。 逆に、そこを丁寧に積み上げ続けている組織は、制度の変更や感染症の流行などの外的要因によるトラブルにも強いはずです。 レジリエントな組織になっているはずなので。 個人も同様です。
  • やなさん

    2022.02.12 11:26

    やはり一気に職場環境が好転するような激薬はないということですね。 自分はバーンアウトしないようできるだけ、職員を頼るようにしています。職員に助けてもらいながら力も発揮してもらう。 上手く巻き込みながらコミュニケーションコストを下げていきたいものです。